終末論について① 『幼年期の終わり』の終末論

 The major event that will happen before the Second Coming of Jesus Christ |  News Break


『幼年期の終わり』(アーサー・C・クラーク)というSFを読んで、思想的にも面白かったため、記事として書かせて頂こうと思った。

 

なお、本記事は完全な「ネタバレ」になるため、SFが好きな方で、「あれは読んでみたいものだった」という方は、本記事よりも前にタイトルの作品を読んで頂きたいと思う。

 

あらすじはこうだ。

 

冷戦中の世界に「オーバーロード」という「宇宙人」がやってきて、人類のすべての問題を緩やかに、しかも人類以上の知恵によって解決してしまう。

 

世界は平和となり、貧困も戦争もなくなり、人類は遊びやスポーツなどをして暮らすようになるが、「オーバーロードとは何者か? 彼らの目的は?」という疑問が残る。

 

数十年後、オーバーロードは宇宙船から降りてきて姿を現すが、それは人類が「悪魔」としてイメージしてきた、そのものの姿だった。ところが彼らは好戦的なものでもなく、実に紳士的で、善意と知恵に満ちているように見えた。

 

一方、彼らの目的は結局わからないままだった。

 

人類がいよいよ主体性を失い、オーバーロードに飼いならされているとき、ある島に芸術家が集まり、創造性や主体性を取り戻すための実験がなされていた。

 

そのなかの子供がいわゆる「超能力」的な、物質を超越する能力を発現し、それが他の子供にも広がっていく。

 

オーバーロードは、それを見届けることが自分たちの目的だったことを明かして、自分たちは「オーバーマインド」という霊的な存在に仕えているもので、人間のように精神的な進化の能力を持っていないことを告げる。

 

やがて進化した人類は「月」を自らの霊的能力で動かすに至り、地球のエネルギーを吸い取り、「オーバーマインド」と一体化して地球から去り、地球は消滅する。

 

ごく短く骨子だけを描くと、以上のような内容だ。

 

SF的な視点からの「終末」を描いたもので、色々な意味で興味深い。

 

著者は進化の流れとして、「物質的・知性的側面」を代表する「オーバーロード」と、「霊的側面」を代表する「オーバーマインド」という「二つの極」を提示しつつ、「オーバーロード」は「オーバーマインド」に仕えている宇宙的な一部族、という位置づけになっている。

 

これは「悪魔」もまた「神」にいやいやながらも仕えざるをえない、という聖書の構造と基本的には一致している。

 

この作品の「オーバーロード」が、聖書が語るような悪魔の「悪意」や「誘惑」、「虚偽」などといった特性を持っておらず、「人類の保護」という役割を行っている、という点は、この作品に独自性を与えている。

 

著者は、「物質性・精神性」と、人間的特性である「宗教性・霊性」の間には「葛藤」があるが、「悪魔」は「物質性・精神性」のなかに人間を留めおこうとしているという点で、ある意味人類を極端な「霊化」から「守っている」側面がある、という主張をしているように思えた。

 

以上の悪魔論は、キリスト者には受け入れられないものだが、SF作家としての独自な視点で、文学としては非常に面白いと思う。

 

一方、「オーバーマインド」という「神」の存在の描き方は、極めて「非人格的」で慈愛や正義といった性格が希薄なものである。

 

また「超能力」「深層心理」「集合無意識」的なものへの目覚めに人間の進化の筋道を見ている。

 

これらの描き方の思想的背景を類推するに、この作品の終末論はキリスト教的であるというよりも、仏教的もしくはユング心理学的であるという風に私には読めた。

 

聖書の終末論と異なるところは、

 

・「新天新地の創造」、「身体の復活」がなく、ただ「オーバーマインド」との霊的一体化だけがある。

 

・終末に来るのは「イエス・キリスト」ではなく、「オーバーロード」という悪魔の外見をした善意の不思議な存在。

 

・「キリストによる最後の審判」ではなく、「進化して物質を離脱できるか、どうか」によって人間の行先が分かれる。

 

などだ。

 

以上からすると、最近の「スピリチュアル」的な思想が行き着くところの「終末論」としても、十分に考えることができるし、使っている「用語」を変えるなら、「仏教的終末論」、もしくは「ヒンズー教的終末論」としても読むことができる。

 

こういった特異な終末論的物語を読むことで、「キリスト者として、自分は聖書からどのような終末を理解し、待ち望んでいるのか」ということを、黙想するときの「アンチ・テーゼ」的なものとして、読むと参考になると思われた。

 

本書を「キリスト教的終末論」と「一致」しているものとして読むことができると誤解する方がいるかもしれない。

 

そのことについては、はっきりと聖書の語るところとの大きな違いを強調する必要がある。

 

本書の終末論は、聖書とは「神学的」にも内容的にも、まったく異なるものだ。

 

本書を読むことによって「終末はきっと、こんなものだろう」とは、決して思ってはいけないし、そう考えることは聖書とは完全にバッティングしている。

 

本書の終末論は、私にとってはひどく深い「悲哀」と「寂寥」に満ちたものに思えたし、こういった終末はまったく好ましいものではない。

 

一方、聖書の終末論は常にイエス・キリストによる「希望」を語っている。

 

その大きな「コントラスト」を文学的に楽しみながら、黙想を深めるための参考書として、おススメしたいものだ。

 

ただ、著者の思想に引き込まれてしまわないほどの、批判的精神は常に持っておかないと、信仰的にまずいことは記しておきたい。


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