2008年に教会の学び会でヨハネの黙示録の読み方を行った時のレジュメが出てきたので、以下転載する。ご参考にしてください。
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1:著者
使徒ヨハネが書いた、という説が伝統的に信じられてきた。
しかし実際には不明。確実なのは、著者がアジアの教会に大きな影響力をもった指導者、預言者だったこと。
聖書を書いた人々は、自分のほうに目を向けてもらうために書いたのではなく、イエスのほうを向かせるために書いている。
著者がだれか、という問題は学問的には非常に重要だが、信仰生活を送っていくうえではさほど重要でない。
著者がだれか、ということよりも、ここにあるメッセージはなにか、という問いが大切。
著者の考えを知るよりも、イエス・キリストを知ることのほうに重点がある。
2:執筆年代
A.D.90年代と多くの学者は考える。
黙示録の書かれた時代は、ドミティアヌス帝というローマ皇帝が支配した時代。皇帝礼拝が強制された。
教会にとっては、大きな迫害の時代。
ヨハネの黙示録は、迫害の時代に書かれた。これを無視しては、この書物をよく理解することはできない。
迫害のなかでどのように生きればいいのか、なにを信じればいいのか、それを主題として語っている。
いまヨハネの黙示録があまり読まれないのは、ある意味では暴力的な迫害の時代ではないから。
この書は迫害の下にある教会を力づけ、励ますために記されている。
3:構成
1:1-3:22 七つの教会への手紙
4:1-7:17 神の支配 天上の礼拝
8:1-9:21 地上への裁き 最後のラッパ
10:1-14:20 歴史の縮図 教会の戦いと暴走する国家
15:1-19:21 地上への裁き 怒りの鉢
20:1-22:5 神の支配 新天新地
22:6-22:21 来臨の約束と待望
以上のなかに「枠構造」が見える。
迫害される教会、暴走する国家、神の怒りの裁き、そういったすべてが神の支配に包まれていることがうかがえる。
ここから、この黙示録の中心のメッセージは、地上でどんな迫害や苦難があろうとも、それらの一切は神の支配の御手のうちにある、ということになる。
どんなに国家がおかしくなり、暴走し、不条理な苦しみが広がったとしても、神の支配は揺らぐことなく、またそれはすべてに及んでいる。だからこそ、恐れる必要ないし、神を信じて安んじてよい。
4:解釈
使われている言葉は高度に象徴的なもの。だから、文字通りに、額面通りに受け取ってはいけない。
その文字とは別のものを表していることがほとんど。
また、そこに記されていることを歴史上の特定の具体的な出来事や人物にあてはめるのも、人間の「推測」の域を出ることがないため、解釈としては不適切(たとえば8:11苦よもぎ=チェルノブイリ原発事故などと読むこと。そういうことはだれにも検証できないし、わからない)。
あとは、他の聖書と同様に解釈する。歴史的文書として、歴史のなかで書かれたものであるが、しかしすべての時代を生きるキリスト者に語りかけている普遍的なメッセージを伝えるものとして読む。歴史的なものを通して、永遠のメッセージを読みとる。
単に過去のことを表す書物として読むのも、純粋に未来のことを予言する書物として読むのも間違い。
なによりも、そこに記されているメッセージを読み取ることが大切。
5:全体の流れと読むためのヒント
① 1:1-3:22
「黙示」というのは「覆いが取り去られること」を意味する。隠されていたものが明らかにされること。
黙示録は、歴史とその背後にある神と悪の諸力との戦いを描き、神が一切のものの主であることを示す。七つの教会へ手紙が送られるが、このメッセージは歴史上のアジア州の七つの教会にとどまらない。
「7」は完全を表す数であることから、あらゆる時代の、世界中の教会へ向けられたものであることがわかる。
また、「勝利を得る」という言葉が手紙の最後に繰り返されるが、これはこの黙示録の主要なテーマ。いかにして迫害や苦しみに勝利するか、ということが問われている。
② 4:1-7:17
天上の礼拝から、小羊が巻物の封印を解くところが描かれる。「天上の礼拝」は世界の歴史の隠された支配者がだれであるかを示している。
「巻物」は世界の歴史。小羊はキリストを指す。封印を解くといろいろな馬が出てくるが、これは歴史上のいろいろな大きな災いを表す。
戦争、飢饉、死などが意味されている。これら全体の伝えるメッセージは、歴史上に起こる一切の戦争や飢饉や死といった災いの数々は、キリストの支配下にある、ということ。
そうしたものを自由に支配する力をキリストは持っておられる。7章では、キリストの支配下に入った人々には、神の保護が約束されている。神の下す災いは、キリストの弟子には害を及ぼさない。
③ 8:1-9:21
ラッパが鳴り響き、地上への裁きが始まる。出エジプト記のファラオへの災いがさらに大きな形で実現する。
ファラオへの災いがかたくなさへの審判であるように、ここでのラッパの裁きも、神を信じず悔い改めないかたくなさへの裁き。だからこそ、滅ぼすための裁きというよりも、悔い改めへの招き。
④ 10:1-14:20
世界の歴史のなかで起こる教会の戦い、国家の暴走が何度も別の形で描かれる。「二人の証人」や「女」は教会。「竜」はサタン。「男の子」はキリスト。
「獣」や「バビロン」は暴走する国家(ローマ帝国やヒットラー、日本の戦時中のことを考えるとわかりやすい)。「666」はネロと言われるが、「横暴な権力者の不完全さ、その業が完成しないこと」をも表わす。
⑤ 15:1-19:21
「バビロン」=暴走する国家(ローマ帝国)への神の裁きが描かれる。国家がどんなに悪魔の手下となり、暴走して教会を迫害しようとも、最終的にそれは決して成功しないこと、むしろ神に裁かれてその支配と迫害は必ず終わることを示している。
どんな苦難や迫害も、リミットがあり、神の裁きが遅れることはない。
⑥ 20:1-22:5
「第一の復活」はキリストを信じること。第二の死は永遠の滅び。新天新地は、新しい天地。こうしたすべては、創世記1章~2章の新しい形での実現。神が新しい天地を創造され、救われた人々はそこを永遠に生きる。
そこには終わりのない喜びと永遠の楽しみがある。中心にはキリストがおられる。すべての否定的なものは消えてなくなる。
⑦ 22:6-22:21
ここまで語られてきたことが真実であることの約束。
また、ここに記されていることを信じてキリストが再び来られるのを待ち望む信仰への招き。
「主よ、来てください(マラナ・タ)」