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日本伝道について② 「世間」と「流動化・断片化」

 

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『「空気」と「世間」』(鴻上尚史著)という新書がある。

 

これは、阿部勤也というカトリック者が日本社会を分析するなかで提唱した「世間学」を前提にしながら、現代社会の「空気を読め」という風潮について、非常に鋭い批評を加えたものだ。

 

山本七平の問題意識を継承して、現代的に展開したものだといえる。

 

この本のなかで、「空気」というのはある特定の場のなかで主要な人物が作り出す「暗黙のルール」である、と分析していく。

 

その集団が逆らうことができない主要人物は、暗黙のルールのネットワークを張り巡らしているが、その集団はいちいちそれを言語化したりしない。

 

しかし、そこに暗黙のうちに支配する「空気」がそのルールを暗示しており、このルールをまったく度外視したような言動をすることを、「空気が読めない」と表現する。

 

ある小さな集団だけでなく、「日本社会」というもの自体が、大きな枠組みの「暗黙のルール」で運営されており、これを守ることができないと、その人は白眼視される。

 

そのルールには5つある、と鴻上氏は分析している。1~3までは、阿部勤也氏がすでに類型化していたが、4、5を加えた。

 

1:贈与と互酬の関係(もらったら、必ずお返しする)

 

2:長幼の序(年上と年下には上下の序列がある)

 

3:共通の時間意識(同じ時間を生きているという前提:お世話になっています、などの挨拶が象徴的)

 

4:差別的で排他的(異なるものを排除する)

 

5:神秘性(儀式的なもので一体性を生みだす)

 

以上のような、「暗黙のルール」によって運営される、「現在・将来において自分と利害関係にある人々の集団」を「世間」と呼ぶ。

 

西洋社会では、キリスト教会がこういった「世間」という概念を破壊して、「社会」というものに変更した、という経緯がある。

 

日本人は「世間」を生きているが、「社会」のことは理解しにくい、という興味深い議論も展開している。

 

日本人はこれまで、この「世間」という共同体に属することで、孤独や困難をクリアしてきた。

 

特に、「日本的経営」が優勢だった時代の会社や、家族と近所付き合いなどに、これがはっきりと表現されていた。

 

しかし、特にグローバル化の進展によって、日本においても「世間」は大きく崩れてきた。

 

1~5までの暗黙のルールも、20代の若者には通用しない時代となってきた。

 

「飲み会」という一体感を生むための会社の「儀式」も、「わたし、帰ります」といって上司の誘いを断る若手社員の姿は象徴的だ。

 

「世間」は相当程度以上に壊れているが、しかし完全にではない。

 

そして、壊れつつある「世間」が「流動化」して、得体のしれない、実体のない「空気」となって人々を規制している、とする。

 

そして、暗黙のルールを破るものを、今もなお「空気が読めない人間」として排除するところがある。

 

ところで、「日本伝道」のことを考えるとき、「教会」というものは地域の人々にどうとらえられているのだろうか。

 

以前、大分のキリシタン史についての講演を聞いたとき、大分にザビエルによって布教されて聖堂も建ったが、数十年間地域の人はだれもそこにいかなかった、という。

 

その理由は、地域の人々が談合して、「あそこには行かないことにしよう」という口約束を交わして、暗黙のルールを決めていた、というのだ。

 

これを聞いたとき、この「あそこには行かないことにしよう」という地域の人々の暗黙のルールは、今もなお無意識的に有効とされているのではないか、と感じた。

 

そう解釈しないと、ここまで多くの日本人の心に御言葉が届かない理由は、説明できないように思う。

 

では、こういった暗黙のルールというものは、変更可能なのだろうか。

 

これを変更するのは大変困難な歴史的事業であって、そう簡単に行かないことは明白だろう。

 

キリスト者の先人たちの並々ならぬ、血と涙を流す働きをへてもなお、この空気は破られてはいないのだ。

 

だが、「流動化とグローバル化、国際化と多様化」の進展が、おそらくこういった暗黙のルールを歴史のなかで「断片化」「縮小化」させていくのではないか、という予測は、ほぼ抱くことができる。

 

つまり、ある地方都市に海外から留学生や旅行者、移住者が大勢やってきて、他の地域から多くの新しい世代層と、新しい情報を胸に抱いた人々が流入してくるとき、その地域の無意識的「暗黙のルール」について、まったく知らず、守ろうともしない人々が増えていくことになる。

 

そうした人々の存在が、その地域の空気を「相対化」していき、ついに「あの暗黙のルールは、今の時代には通用しにくいものとなったから、日本人もこれまでとは違う考え方が求められているのではないか」と多くの人が感じる状況を、次第に作り上げていくのではないだろうか。

 

日本が置かれている状況のなかで、日本の外部の「世界」とのつながりと、地域社会の「多様性」の濃度と強度が歴史的に徐々に上昇していくことが、結果的に「暗黙のルール」となった「空気」を相対化するのではないか。

 

そして、こういった時代がいよいよ大きなコンテクストとして到来したとき、キリスト教会に、その時代を生き抜くために人々が救いを求めて大挙してやってくることがほぼ確かに予測できる、という根拠のある希望を抱くことができるのではないか。

 

時代はそちらの方向に、確実に動いているように感じる。

 

大きな課題は、そういった時代が到来するまで、教会が御言葉と祈りの生活を深め、無関心の苦しみを耐え忍び、主イエスを救い主として依り頼む信仰を守り続ける、ということだろう。


日本伝道について① 「空気支配」に抗して

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日本論の名著として、山本七平の『空気の研究』というものがある。非常に興味深いものだ。

 

戦中の軍部が、アメリカと戦争したら必ず負ける、というほぼ確実な分析結果を得ていたのに、戦争に突き進んでいったときの会議に出てくる言葉に、「空気」というものがある。

 

「全体の空気からして、ああせざるをえなかった」というような言い方だ。

 

「空気」という得体のしれないものが会議を支配し、不合理かつ多大な犠牲が伴う決定をもしてしまう精神性がある、ということを、山本七平は分析していく。

 

結局のところ、山本は「空気」とは相対的なものを絶対化するときに生じるものであるとする。

 

たとえば、これは私なりのたとえだが、みんなが「この人はすばらしい」と口々に言っているとき、「その人」を絶対的なものであると感じる雰囲気が醸成されるが、それが「空気」の正体である、とする。

 

「その人」の真実の姿は、かっこ悪いところも多分にあり、おかしな癖や妙な性格満載かもしれない。

 

しかし、みながその人をあまりほめているとき、「その人について、弱点を指摘してはいけない」ような無言の圧力が生じてくるのは、だれしも経験するところだろう。

 

そういうとき、「いや、この人も実はこういった変なところがあるのだ」と口にすると、場が白けて、「お前、何様だよ」という目で見られる。

 

現代ではこういったシチュエーションで、「お前、空気を読めよ」、「空気の読めないやつだな」と言われるかもしれない。

 

これを「水を差す」という言葉で山本七平は表現して、「空気」を破るのは「水を差す」ことである、という論を展開していく。

 

「水を差す」とは、「みなが絶対化しているものは、現実には相対的なものである」ことを指摘することだ。

 

「裸の王様」の寓話があるが、「王様は裸だ!」と叫んだ少年は、「水を差した」と言える。

 

逆に、「お前は頭が悪い」と言われるのを恐れて、場の空気に支配されて「王様はなんて美しい服を着ているんだ」と言っていた人々は、「空気」に支配されていた。

 

こういった「空気」を醸成する日本のメンタリティーと、日本伝道にどういった関係があるのか。

 

そもそも、日本社会で、特に地方において人々が教会を訪れない理由は、まさにこの「空気」が理由なのではないだろうか。

 

つまり、日本の地方の地域社会は、なお都市部よりは濃く近所付き合いと互助的ネットワークが残っており、家族関係も都市部とは異なっている。

 

そういったなかで、「教会に行く」ということは、その個人はその行為自体が「家族や地域の空気に水を差すような和を乱す行為」である、という風に感じているのではないだろうか。

 

神社やお寺などを中心とした日本人的な宗教的空気が緩く支配する地域社会のなかで、教会に行くことは、そういった空気に水を差して、周囲の人々からごく軽微な形であっても白い目で見られことを意味する。

 

また、「あなたはなんで、教会に行くのか。日本には昔からの宗教があるのに」というような無言の圧力にさらされることを、肌で実感する。

 

そういった「地域社会の場や人の調和を破る行為」として、「教会に行く」ことは考えられやすいものとなる。

 

「この地域の空気では、到底自分には教会になど行くことはできない」というのが、多くの人々の感じているところだろう。

 

これは教えの良し悪しの問題以前のところにある課題であって、だからこそより強力に人の心を支配するのだ。

 

教会に来ている方々のお話を聞くと、だれもが人生のどこかでこういった日本社会の「空気」を離脱するか、抵抗するか、「空気との摩擦」の体験をしていることがわかる。

 

「留学」や海外での生活をした人は、心理的に教会に来ることがずっと容易になる傾向がある。

 

それは、日本の「空気支配を離脱する」ことを経験したからだろうことが推測できる。「日本の空気は、絶対ではない」ことを、海外での生活で味わったからだ。

 

しかし、そういった離脱経験が乏しい場合でも、なんらかの形で「空気支配」において「苦しみを受ける」経験や、「空気からはじ出される」経験をした人が、教会に来ているケースが多い。

 

日本伝道は、こういった「空気」との戦い、という性格をもっており、これとどう有効なゲリラ戦を展開するか、ということが日本伝道の急所ではないか、と感じている。

 

パウロがエフェソの信徒への手紙で、キリスト者の敵は「天の悪の諸霊」であると語るとき、パウロが考えていたのは「悪霊」の存在だが、日本のコンテクストでは「空気支配」をそこに読み込むことには、意味があるのではないか。

 

日本の「空気支配」とどう向き合って伝道していくのか。

 

この課題は深遠かつ非常に実践的なので、これからも折を見て考察してみたい。





齋藤真行牧師の説教・牧会チャンネル

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