日本伝道について① 「空気支配」に抗して

 ミッション(使命)に憑りつかれた時に【カウンセラー開業】 | 「大阪イチやさしいNLP教室」心理学講座からカウンセラー起業までをトータルサポート


日本論の名著として、山本七平の『空気の研究』というものがある。非常に興味深いものだ。

 

戦中の軍部が、アメリカと戦争したら必ず負ける、というほぼ確実な分析結果を得ていたのに、戦争に突き進んでいったときの会議に出てくる言葉に、「空気」というものがある。

 

「全体の空気からして、ああせざるをえなかった」というような言い方だ。

 

「空気」という得体のしれないものが会議を支配し、不合理かつ多大な犠牲が伴う決定をもしてしまう精神性がある、ということを、山本七平は分析していく。

 

結局のところ、山本は「空気」とは相対的なものを絶対化するときに生じるものであるとする。

 

たとえば、これは私なりのたとえだが、みんなが「この人はすばらしい」と口々に言っているとき、「その人」を絶対的なものであると感じる雰囲気が醸成されるが、それが「空気」の正体である、とする。

 

「その人」の真実の姿は、かっこ悪いところも多分にあり、おかしな癖や妙な性格満載かもしれない。

 

しかし、みながその人をあまりほめているとき、「その人について、弱点を指摘してはいけない」ような無言の圧力が生じてくるのは、だれしも経験するところだろう。

 

そういうとき、「いや、この人も実はこういった変なところがあるのだ」と口にすると、場が白けて、「お前、何様だよ」という目で見られる。

 

現代ではこういったシチュエーションで、「お前、空気を読めよ」、「空気の読めないやつだな」と言われるかもしれない。

 

これを「水を差す」という言葉で山本七平は表現して、「空気」を破るのは「水を差す」ことである、という論を展開していく。

 

「水を差す」とは、「みなが絶対化しているものは、現実には相対的なものである」ことを指摘することだ。

 

「裸の王様」の寓話があるが、「王様は裸だ!」と叫んだ少年は、「水を差した」と言える。

 

逆に、「お前は頭が悪い」と言われるのを恐れて、場の空気に支配されて「王様はなんて美しい服を着ているんだ」と言っていた人々は、「空気」に支配されていた。

 

こういった「空気」を醸成する日本のメンタリティーと、日本伝道にどういった関係があるのか。

 

そもそも、日本社会で、特に地方において人々が教会を訪れない理由は、まさにこの「空気」が理由なのではないだろうか。

 

つまり、日本の地方の地域社会は、なお都市部よりは濃く近所付き合いと互助的ネットワークが残っており、家族関係も都市部とは異なっている。

 

そういったなかで、「教会に行く」ということは、その個人はその行為自体が「家族や地域の空気に水を差すような和を乱す行為」である、という風に感じているのではないだろうか。

 

神社やお寺などを中心とした日本人的な宗教的空気が緩く支配する地域社会のなかで、教会に行くことは、そういった空気に水を差して、周囲の人々からごく軽微な形であっても白い目で見られことを意味する。

 

また、「あなたはなんで、教会に行くのか。日本には昔からの宗教があるのに」というような無言の圧力にさらされることを、肌で実感する。

 

そういった「地域社会の場や人の調和を破る行為」として、「教会に行く」ことは考えられやすいものとなる。

 

「この地域の空気では、到底自分には教会になど行くことはできない」というのが、多くの人々の感じているところだろう。

 

これは教えの良し悪しの問題以前のところにある課題であって、だからこそより強力に人の心を支配するのだ。

 

教会に来ている方々のお話を聞くと、だれもが人生のどこかでこういった日本社会の「空気」を離脱するか、抵抗するか、「空気との摩擦」の体験をしていることがわかる。

 

「留学」や海外での生活をした人は、心理的に教会に来ることがずっと容易になる傾向がある。

 

それは、日本の「空気支配を離脱する」ことを経験したからだろうことが推測できる。「日本の空気は、絶対ではない」ことを、海外での生活で味わったからだ。

 

しかし、そういった離脱経験が乏しい場合でも、なんらかの形で「空気支配」において「苦しみを受ける」経験や、「空気からはじ出される」経験をした人が、教会に来ているケースが多い。

 

日本伝道は、こういった「空気」との戦い、という性格をもっており、これとどう有効なゲリラ戦を展開するか、ということが日本伝道の急所ではないか、と感じている。

 

パウロがエフェソの信徒への手紙で、キリスト者の敵は「天の悪の諸霊」であると語るとき、パウロが考えていたのは「悪霊」の存在だが、日本のコンテクストでは「空気支配」をそこに読み込むことには、意味があるのではないか。

 

日本の「空気支配」とどう向き合って伝道していくのか。

 

この課題は深遠かつ非常に実践的なので、これからも折を見て考察してみたい。





齋藤真行牧師の説教・牧会チャンネル

https://www.youtube.com/@user-bb1is6oq4x/featured

人気の投稿

☆神学者・テーマ一覧