神学校で学んでいたころ、組織神学の先生から教わったなかで、自分にとっては非常に有益でインパクトがあったものがある。
それは、「神学用語は聖書や教会の伝統から規定されるもので、この世での意味をそこに読み込んではならない」ということだ。
つまり、神学や信仰の世界での「用語」は、聖書と信仰の伝統から意味が定まるものであって、この世のコンテクストとは違う意味で用いられていることが多い。
その部分を理解することができず、この世的意味で聖書や信仰書、神学書を読むと、妙な誤読をすることになる。
その最もよい例として、「支配」という言葉がある。
私自身、求道者のころ、聖書で「その支配は代々限りなく」などと読むと、神に対してそこはかとない不安を覚えるものだった。
というのも、当時の私にとって「支配」という用語は、多分にネガティブな意味を含んでいるものだったからだ。
世界史や日本史をひもとくと、王や権力者の「支配」によって苦しめられる民衆の姿が出てくる。
人間の歴史においては、「支配者」というのは、人間的にろくな者ではないことが多い。
高慢で人を見下し、戦争に民を駆り立て、自らは贅沢に暮らす、という「支配者」についての消し難いイメージがある。
こういった人間の歴史における「支配」の言葉やイメージ、連想などを、聖書が語る「神による支配」のなかに読み込んでしまうと、「神は人間の支配者のように、恐ろしく過酷な存在だ」というイメージを、神の存在のなかに読み込んでしまうのだ。
この世での連想イメージから、「神の支配」が、「恐ろしいもの」に感じられてしまう。
こういった「誤読」があまりに昂じると、聖書や神ご自身の存在への理解や信仰が大きくゆがんでしまい、信仰生活が苦しく、つらいものになりかねない。
聖書が語る「支配」とは、「神の愛による統治」のことであって、罪人の支配者とは異なり、慈愛と祝福に満ちた私たちに対する保護と導きの業であると言えるのだ。
聖書、神学が語る「支配」という用語と、この世が培ってきた「支配」の用語の間には、大きな「ずれ」がある。
この「ずれ」をしっかりと理解し、「聖書が語っている神の支配とは、恩寵と慈愛そのものであって、この世が語るような抑圧的かつ過酷なものではありえないのだ」ということを、はっきりとわきまえなくてはならない。
こういった「ずれ」というものは、ほとんど「教会とこの世」を対照するとき、あらゆる文脈で出てくるものだ。
たとえば、教会の「役員会」と、会社の「役員会」は、同じ用語でも意味がまったく異なっている。
会社での意味を、教会に持ち込んでしまうと、教会形成のやり方を間違えてしまう。
教会での「祈り」と、この世の「祈り」の内容も、大きく異なっている。
教会で使われる「奉仕」と、この世の「奉仕」も意味が違う。
ほとんど、どんな用語にも、こういった「ずれ」というものがあるのだ。
その点をしっかりと理解することをしないと、教会とこの世が妙な形で「同化」してしまう危険を犯すことになる。
「神学用語辞典」といった類の書物は、上に述べた意味で重要な役割を担っていると言える。用語の意味を間違えたまま使っていると、とんでもない誤解も生みかねない。