実践的神学用語解説① 「共同体」について

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いつの頃からかわからないが、多くの牧師が「共同体」という言葉を多用するようになった。


おそらく、20世紀後半の神学、哲学からの影響だろうと思う。

 

アルフレッド・アドラーという心理学者も、「共同体感覚」という重要概念を提唱し、最近では「白熱教室」で有名なマイケル・サンデルという哲学者も「コミュニティ」という概念で共同体的なものを論じている。一つの、時代の潮流と言える。

 

教会はあくまで「共同体」であって、「個人主義はダメだ」という論調で使われることが多い。

 

多くの牧師が使う「個人主義」という言葉の意味は、「個人が宗教的満足、慰め、平安を求めることで事足りるとする信仰の在り方」を指しているようだ。

 

ボンヘッファーも『獄中書簡』のなかで、「機械仕掛けの神」について論じていくなかで、「宗教」について「宗教は個人主義」であるという主旨で批判している箇所がある。

 

旧約聖書から考えると、確かに聖書の神は「イスラエルの神」であり、「神の民の間で讃美される神」だ。

 

新約聖書でも、イエス・キリストは常に弟子の共同体のただなかにおられた。


そして、聖霊ご自身もまた、ペンテコステに「一同が一つになって祈っている」なかに注がれた。

 

以上の点について、20世紀前半までのプロテスタント教会が、それほど自覚的でなかった、もしくはまっすぐに受けとめなかった、という歴史的経緯に基づいて、「共同体論」が強調されているのだと思う。

 

確かに、たとえばスポルジョンの説教を読むとき、そこに「共同体」の響きはない。19世紀までは、この側面は看過されていたことは、否定できない。

 

そういう意味では、大いに必要な議論だと思うし、これからも教会論を進めるなかで、共同体論については深めていかなくてはならない課題だ。

 

上記のことを前提にしたうえで、ただ一つ気になるのが、多くの人は「個人主義はダメだ」というが、「共同体主義はダメだ」とは言わない、ということだ。

 

「個人主義」という用語を使って批判するなら、「共同体主義」の批判もありうるはずである。

 

たとえば、日本社会はすぐに「絆」や「みんな一緒」、「助け合い」、「一緒に頑張ろう」というフレーズを強調するかなり強力な「共同体主義」の社会だと言える。


日本の「集団主義」というのは、古くからある日本論の主題の一つだ。

 

教会の門を叩いて洗礼を受ける「一代目キリスト者」となる人は、こういった日本の「共同体主義」の世界のなかで人生が破綻したり、うまくいかなくなった人が多い。


共同体主義でうまくいっているうちは、教会に来る必要はほとんど感じないはずだ。その道が閉ざされたから、新しい道を求めて教会に来る。

 

すると、日本の共同体主義に躓いて教会に来たという人は、いわば「単独者」「個を引き受けた者」になっているのであって、教会はそういう人の「個性」「個人の尊厳」といった個人としての側面をまっすぐに受けとめる方が、ある意味伝道的であるといえるのではないか。

 

日本の共同体主義に破れて教会に来た人に必要なのは、「個」を受けとめてもらえる、ということだろう。


そういったコンテクストを無視して、教会で「個人主義はダメだ。教会は共同体だ」と言い続けることは、新来者、求道者の心中に不協和音を生むことになるのではないか。

 

個々のキリスト者が教会に仕えるようになる、本当の意味での共同体意識に目覚めるのは、かなりの時間が必要だ。


洗礼を受けて、神と教会に「個」をしっかり受けとめてもらったあと、霊的に成長していく過程でそういった意識が強くなっていく。

 

「単独者」として教会に来る求道者に、いきなり「共同体」論の強調を浴びせるのは、伝道的ではないのではないか、という疑問を私自身は抱いている。


「個人主義のままでいい」ということではないが、それを「ダメ」と言ってしまっては、その先が展開されないように感じる。

 

むしろ、「神の前に『個となること』を引き受けて教会に来た」という事実を、真正面から理解することが、まず大切だろう。

 

同時に、「教会の共同体主義」という問題もあると言える。


「神の眼差しではなく、教会員の眼差しを気にして自分の行動を律し、考える」というところが、私たちにはあるのではないか。

 

もしくは、個人の創造性や新しいアイデアを、集団の名のもとに潰そうとする傾向があるのではないか。


そういった新しい考えが、教会にとって破壊的なものなら、壊すのは当然かもしれないが、教会にとって重要な意味をもつ価値のある考えさえも、圧殺するところがあるのではないか。「足の引っ張り合いによって、個人の独創性、創造性の芽を摘む集団主義の傾向」ということだ。

 

そうであるなら、教会という共同体もまた、悪い意味での「共同体主義」の弊害を持っていると言わざるをえない。


「見えない教会」にはそれがないが、歴史を担う「見える教会」にはこうしたことが現実的によくある。

 

旧約聖書でも、神は「イスラエルの神」だが、「アブラハム、イサク、ヤコブ」の神であり、「モーセ、エリヤ、ダビデの神」だ。

 

新約においても、キリストは弟子たち一人ひとりを、「尊厳ある個」として徹底して受け入れ、愛してくださった。

 

聖霊もまた、一人ひとりの魂に内住され、無意識の底にまで浸透して人間を清めてくださるのだ。

 

つまり、「個人主義はダメだ」というなら、「共同体主義もダメだ」という批判も同時にするべきで、「個人と共同体」の双方の真理契機をまっすぐに受けとめないなら、信仰的にバランスを失ってしまう、ということだ。

 

教会は、「個人」が自由を与えられ、自由にされた個人が喜びをもって「共同体」に奉仕し、群れを形成するという意味で、「個」と「共同体」の双方が生かされる交わりだ。

 

「共同体」が強調され過ぎて、「個人」が置いてきぼりにされることがないよう、またその逆もまたないよう、在り方を改めて吟味してみたい。



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