バクスターは、「自己審査」をするように提案する。
これはピューリタニズムの伝統の大きな特徴であり、「堅固なキリスト者」へ成長するために必要な自己訓練だ。
「自己審査」とは、一日や一週間を振り返り、「自分が神と被造物、神とこの世のどちらを自分は喜び、好んでいたのか」について、良心に照らして自分自身の生活を審査することだ。
神の言葉を聴くことにより、私たちの良心は神に対して鋭敏となる。
その良心に照らして、自分の生活は本当に神を愛するものだったのか、それともこの世を愛するものだったのか、これを検討するのだ。
この審査のなかで、「自分は神から離れていた。この世を神よりも愛していた」と感じたなら、その歩みや方向性を悔い改め、神に立ち返る。
逆に、「神を愛することに心を傾けていた」と感じたなら、それをさらに深めて続けることができるよう、神に祈り、神に立ち返る。
このように、神に対して祈るばかりか、自分自身を振り返り、審査することによって、「自分で自分の歩みを神の言葉と良心を通して修正する」ことができるようになる。
バクスターは、「堅固なキリスト者」へと一人ひとりを育てることを最重要課題としたが、これは「自分で聖書に聴き、自ら自己審査をして、自分で過ちと罪を悔い改め、神に立ち返り、成長することができるキリスト者」ということでもある。
「自立的・自律的キリスト者」ということだ。
このようなキリスト者こそ、神の御前に責任を担い、教会を形成し、神の栄光を顕すことができる。
私たちは道を踏み外してしまうと、それを正当化して「自分は正しい」とあくまで主張し、神を汚し、教会を壊すことをしかねない。
「罪を認めない」ことは、キリスト者として神の御前に正しく歩み、成長することを否定することだ。
しかし、「自己審査」をしっかり身に着けると、自分の良心を神に対して偽ることはできないため、自分で罪を認めて神に立ち返るような、霊的な習慣が確立されてくる。
これが、私たちのキリスト者としての歩みと成長を、確固たるものにしていく大きな土台になる。
「自己審査」によって明らかになった罪を神に告白し、悔い改め、神に従う決意をもって歩みだす。
これは、キリスト者として成長し、生き続けるために、決定的に重要なことだ。
強い痛みをもって思い起こすが、これまで自分の罪を認められないがために、人生の道を狂わせてきたキリスト者をいろいろなところで見てきた。
ほとんの人は、どんなに聖書の教える道から離れていても、「自分は正しい」と信じ切っていた。
そして、自らと周囲に霊的な災いを招いていることについても、無自覚であることが圧倒的に多かった。
「自己審査」の習慣と伝統を受け取りなおすことが、教会の再生にとって急務であることを覚えざるをえない。