ウェスレーの『キリスト者の完全』の教理で私が最も混乱したのは、「罪の理解」についてだ。
ウェスレーは改革派、ルター派的な罪理解ではないようなのだ。
同じ「罪」という言葉を使っているが、微妙にニュアンスが違うため、そこが混乱のもとになるように思った。
ウェスレーが言うところの罪は、「人間的欠点」という意味ではない。
肉体を持つ者としての人間としての弱さや欠陥などは、罪ではない、というのだ。
ウェスレーは罪を、「創造論」的な領域ではそれほど深刻にとらえない。
むしろ、救済論的な部分での罪の方にフォーカスしているように思える。
つまり、キリストと神の律法に背反し、神と隣人への愛のみに生きようとしない、そういうあり方が罪だと言われているのである。
肉体を持つ人間としてのさまざまな欠陥や弱点については、罪とは区別すべきものだとしている。
人間としての「欠点」と、「キリスト者の完全」は両立するのだ、とウェスレーは語る。
キリスト者としての完全を与えられていながらも、なお「人間的欠陥」はいろいろある、ということは矛盾しないというのだ。
神と隣人への愛にまったく満たされておりながら、なお人間としての弱さや限界があるということは矛盾しない、ということだろう。
そして、ウェスレーの罪理解は、「原罪」の方よりも、むしろ「行為」の方に焦点を合わせているように思える。
キリスト者は神の恵みによって、行為において罪を犯すような「必然性」は存在しない、とする。罪を犯さずに生きる可能性を肯定するのだ。
人間存在に巣食っている根源的な罪よりも、具体的な個々の行為としての罪を、より思考のなかに取り入れている。
「原罪」をそれほど深刻にとらえないため、キリスト者の「罪の残存」も聖化の生活を深めることで克服されうることを示す。
以上のような罪理解であることがわからずに『キリスト者の完全』を読むと、「???」という混乱を覚えることになる。
私も、途中でこのような違いがあることがわかり、そこで言われていることの意味を飲み込めた感がある。
しかし、以上のような罪理解の私としての疑問は、「創造論的な罪と、救済論的な罪は、相互浸透しているのではないか。相互に性質として絡み合っているのではないか」ということだ。
ウェスレーは人間としての「欠点」は罪ではない、とする。
しかし、そうだろうか。人間としての弱点によって、「神と隣人への愛」がおおいに妨げられ、壊されることがあるのではないだろうか。
人間としての弱さや欠陥という創造論的な罪が、救済論的な罪へと影響することがあるのではないだろうか。
逆に、救済論的な罪、キリストへの背反が、創造論的な罪の領域へ影響することも、あるのではないか。罪は人間存在と生活の全領域に浸透しているのではないか。
改革派やルター派のように「原罪」を深刻にとらえると、人間存在のすべてが罪によってとらえられているということになる。
「これは罪ではない」という領域を設定することは困難になる。すべてが罪によって浸食されているのだ。
ウェスレーの罪理解だと、創造の領域と救済の領域が「分離」している感が強い。
つまり、こうした理解だと「キリスト教文化の形成」や、「教会が社会と歴史へ与える影響」といったことが、神学的に位置づけにくいのではないか。
教会と社会の間に、「壁」を作る方向になりはしないだろうか。
教会が社会から分離した、「セクト」的な傾向を持つようにはならないだろうか。
これがウェスレーの「罪理解」から感じた疑問の一つだ。