カルヴァンの『キリスト教綱要』の初めの部分に、非常に興味深く、的確なことが書かれている。
それは、人間の自己認識と神認識は繋がり合っている、ということだ。
神を知ることなくして、自分を知ることはできない。自分を知ることなくして、神を知ることはできない。
この両者の間には、深い関連がある。
個人的な経験を話そう。
私もよくキリスト者として生活していると、「これはひどい罪を犯してしまった」と思うことがある。
なにかひどく神の愛にさからうようなことをして、罪を犯すまでは、無意識的にどこか「自分はよい人間なのではないかな」というほのかな感覚を持っている。
ところが、罪を犯して神の前に沈むと、自分はやはりとんでもない罪人でしかなかった、ということを思い知る。自分が正しく、善い人間であることなど、幻想であり、自分は神の前に反逆者でしかないのだ、と知る。
ところが、こうして自分の罪を認めてへりくだると、不思議なことが起こるのだ。このことによって、神の愛がより深く示されるのだ。
それまでは、なんとなく自分は善い人間であると思う・・・という感覚が邪魔をして、神の慈愛を見えなくさせていたのだ。
ところが、自分が破滅するしかない罪人であることを知ると、こんな自分は神に頼む以外にないことがはっきりとし、そして同時にこんな自分をなお愛して下さるキリストの恵みを深く心に味わう。
そして、神を信頼し、その恵みを味わうほどに、自分はこのお方なしには滅びる以外にないことを思い知る。
自己認識においては、神の前にどこまでも低くへりくだり、神認識においてはどこまでも神の力の偉大さを讃える。これこそが、「信仰」の基本だろう。
自己認識と神認識がどこまでも深められ、広められていくのが信仰生活だ。
この本質的な理解を最初に書き記しているのは、「さすがカルヴァン先生です。お見事です」という以外にない。