エドゥアルト・トゥルナイゼン 「牧会」における「断絶線」

 Eduard Thurneysen – NAMENSgedächtnis

エドゥアルト・トゥルナイゼンは、彼自身の神学においてよりも、「バルトの親友」として有名なのかもしれない。

 

バルトが田舎で牧師をしていたとき、隣の村に住んでいたトゥルナイゼンのところに自転車で長時間かけて行き、暗くなるまで夢中になって神学のことを語り合った、という思い出の記述をバルトの評伝に読んだときは、バルトを心底うらやましく感じた。

 

田舎で牧会していて、そこまで深く神学的に響き合うことができた友人がいたというのは、トゥルナイゼンにとっても大いなる祝福だっただろう。

 

この二人は神学的盟友として、その後もずっと歩みを共にすることになる。

 

トゥルナイゼンの著作については、『牧会学』が最も有名だろう。

 

この書は、説教とは教会の会衆全体に対するみ言葉の宣教であるのに対し、牧会は個人へのみ言葉の宣教であると定義している。

 

「牧会」というと、最近の心理学をふまえた「牧会カウンセリング」の大きな影響で、「傾聴すること」が第一に据えられている印象がある。

 

「傾聴すること」の大切さは、たしかに特筆すべきことだ。


牧師という「教える職務」が習慣化してくると、「人の話を聞かずに、しゃべりたがる」という癖がどうしてもついてしまうため、「傾聴」の教えは常に重要だ。

 

しかし、トゥルナイゼンは、「傾聴すること」を「み言葉を伝える」ことの前段階とする。傾聴だけで牧会が尽きるとは、考えていない。

 

牧会を求めているキリスト者は、常識的・心理的・人間的問題を、牧師に打ち明ける。


職業、夫婦関係、子育て、金銭問題など、ほとんどキリスト者といえども、牧師に助言を求めて語るのは「この世な問題」だ。

 

牧師はそれを、傾聴しなくてはならない。それも、相手の心が透徹してくるほどに、真剣に聞かなくてはならない。

 

トゥルナイゼンは、この「聴く」態度を、クリストフ・ブルームハルト(子ブルームハルト)から学んだようだ。

 

彼はブルームハルトが助言を求めてきた人の話を、「異常な真剣さ」で取り上げる姿勢に、深く感銘を受けている。

 

この「聴く」ことが、「語る」ことの重要な準備となる。

 

牧師はまったく人間的・この世的問題を聞いたとき、これを聴きながら聖書を通して解釈している。聖書的角度から、この問題を見分けているのだ。

 

牧師は相手の話を取り上げ、質問し、導いていくが、あるとき「断絶線」にさしかかる。

 

つまり、「人間的・この世的問題」が、牧師の聖書的角度からの解釈によって、「信仰とイエス・キリストへの服従の問題」へと、一線が踏み越えられて変容する瞬間がくるのだ。

 

人間的・この世的問題を聖書に照らして聴き続けることで、この問題にみ言葉がなにを語っているのかが見えてくる。それを、牧師は相手に伝える。

 

これが、個人へのみ言葉の宣教なのだ。断絶線を越えて、相手は信仰の領域に引き込まれる。


そして、自分の抱えている問題が聖書と信仰のパースペクティブからして、どのように理解できるのか、なにが神から自分に求められていることなのか、それを牧師から聴くことができるのだ。

 

以上がトゥルナイゼンの語る「牧会」の姿であって、「傾聴」を通して「み言葉の宣教」へ至り、これにあずかったキリスト者はキリストへの服従を決意して牧師のもとを去っていく。

 

以上のトゥルナイゼンの論述は明晰そのもので、深い感銘と理解をもたらさずにはいないものだ。彼は心理学もまた、牧会の補助学として機能するもので、心理学を学ぶ重要性も語っている。

 

トゥルナイゼンの牧会学の教えは、ある意味では「説教学」でもあり、「伝道学」でも「弁証学」でもある。

 

私は彼の「牧会学」から、説教についても深く強く教えられる思いがするし、日本のような伝道地のコンテクストでも十分耐える内容があると思う。

 

罪に満ちた人間的・常識的・この世的問題が、「断絶線」を越えて信仰と主イエスの光のなかに取り上げられ、新しい世界の恵みのなかで認識されることは、説教・伝道・証しの営みの本質でもある。




齋藤真行牧師の説教・牧会チャンネル

https://www.youtube.com/@user-bb1is6oq4x/featured

人気の投稿

☆神学者・テーマ一覧