教会は聖霊が満ちておられる交わりであるが、同時に人間の群れであり、人間的法則にもまた支配されている。
そこに集っている人々がみな、聖霊のリアリティに集中しているわけではなく、むしろごく常識的・人間学的認識によって信仰生活を送っている人々も多い。
教会もまた人間の集いであり、物理的な法則のもとにあるという意味で、「エントロピー増大の法則」という熱力学の法則を教会に適用すると、面白い部分があるので記事に書いてみることにした。
「エントロピー増大の法則」とは、宇宙と自然界などの物理的世界においては、「乱雑さ(エントロピー)は増大していく」という法則に支配されている、ということだ。
つまり、「秩序」「力強さ」「高エネルギー」といったものは、次第に低下していき、「乱雑さ」「無秩序」「低エネルギー」へと変わっていき、最後には「混沌」「熱死」の状態に戻っていく、ということだ。
卑近な例だが、熱い飲み物は自然と冷めていく。
水に色をたらすと、全体に薄まりながら拡散していく。
整理された机は次第に散らかっていく。
この法則を人間界にも適用してみると、なかなかおもしろい。
つまり、人間や組織といったものも、エントロピー増大の法則にしたがうとするなら、そこにいる人間が手を加え、知識や心を加えない限りは、無秩序・乱雑さ・混乱度合いが増えていく、ということだ。
シュレーディンガーという学者は、『生命とはなにか』(岩波文庫)という書物のなかで、「生命は外部の環境から情報等を摂取することで、エントロピー増大の法則に抵抗しようとするものである」という主旨の主張をした。
つまり、生物もまたエントロピー増大の法則にしたがい、だんだんと「混沌」へ戻っていく性格があるが、生物は周囲の環境から食べ物を得たり、情報や知識を得たりなどすることで、腐敗・混乱・無秩序に落ちていくことに抵抗し続けているものである、ということだ。
さらに外部の環境システムに対して「開放」されていることが、生命にとって極めて重要である、という。
これを「開放系」という。
生命は外部に対して「開放系」になっていないと、生存していくことはできないのだ。
情報や栄養の摂取ができなくなるからだ。
以上のことを考えると、教会という人間の集いも、「神の言葉」という「食べ物」「霊的情報」を摂取し続けることで、また世の人々に伝道してその魂が救われていくことで、「原罪の影響」「罪による人生の破滅」というエントロピー増大の法則にも非常に似ている、霊的圧力・霊的エントロピーに抵抗し続けている群れだ、ということになるだろう。
エントロピー増大というのは、「乱雑さ」が増すことであるが、これは人間的次元では「緊張と集中がゆるむ」「熱心さがたるむ」ことであるともいえる。
平たくいうと、「神を追い求める」という礼拝や祈りの生活において、教会が「ゆるみ」「たるみ」を増していくことは、霊的エントロピーの増大であり、ひいては教会が「混沌」「熱死」への道をたどることでもある。
教会役員会の課題は、教会の霊的エントロピー増大である「ゆるみ」「たるみ」に抵抗しながら、教会として神に集中していく道を協議して見出していく、ということだ。
それは教会が自らのうちにある
「自分が楽になろうとする傾向」
「あまりにイージーな救いと安っぽい恵みに満足しようとする傾向」
「教会の外の人々に伝道するより、教会の内部を守ることを第一に優先しようとする傾向」
などの「原罪的傾向」と闘い続けることを意味している。
人間もまた生命として、新しい情報を摂取し、新しい環境とのすり合わせがないなら、エントロピー増大の法則により、人生全体の「ゆるみ」「たるみ」が増大して、「混乱」「無秩序」「熱死」に一歩一歩と近づいていく。
教会が「御言葉をのべ伝える」という点で、どこまで「開放系システム」になっているか、どこまで「閉鎖系システム」になっているか、問われるところだ。
教会はどこまでキリストに対して、世の人々に対して、愛や伝道の点で「開放系」だろうか。
これが重要な教会役員会の課題となる。
教会にとっては、「神の言葉」という霊的食べ物、「神への祈り」という霊的集中、「神への奉仕」という霊的緊張を担っていくことで、霊的エントロピー増大の法則に抵抗し、世の終わりに主イエスが来られたとき、「眠っている愚かなしもべ」ではなく、「善であり、忠実であるしもべ」としてお褒め頂くことが、すべての目的であろう。
教会役員会という協議の場にも、霊的なエントロピー増大の法則は常に働いている、信仰においてこれに抵抗しているのだ、という意識がないなら、こういった空気的な圧力に負けてしまうのは、極めて容易なことだ。
「目を覚まして絶えず祈りなさい」
このように警告され続けた主イエスを、魂のまなざしで深く仰ぎ続ける以外にない。