(※以前教会月報に掲載したエッセイより)
「信仰とはなにか」と考えてみると、この問いに一言で答えられない自分がいます。
神学をいろいろ学んで、聖書を読み続けてきましたが、それでもこの問いを割り切って答えられません。
この問いは、ダイヤモンドのように見る角度によっていろいろな輝きを示しますし、私たちが置かれている状況においても、答え方が違ってくると思います。
これから何回か、信仰とはなにか、という問いについて思うところを書いていきたいと思います。
かなり哲学的な話になるかもしれませんが、御容赦ください。
「信じる」ということは、「知る」とは違います。
「知る」ことは感覚によってはっきりとわかっていることです。
太陽が輝いていること、リンゴが目の前にあること、教会がここに建っていることは、感覚で「確認」できますので私たちは知っています。
ところが、「あの人はわたしを愛してくれているのか」ということになると、途端にわかりにくくなります。
「愛」は目に見えないからです。
「宇宙人はいるのかどうか」も、感覚で確認できませんので、「知り」ません。
「幽霊」も同じです。
「信じる」ということは、基本的に「感覚で確認できない」ものについて成り立つことです。
ある意味では宇宙人も幽霊も、愛についても「信じる」という領域に属することです。
私が自分の感覚によっては確認できないもの、経験できないものについては「信」の事柄なのです。
聖書が語っている主題は、「三位一体の神」です。
このお方が歴史においてどう働いてこられたのか、それを描いています。
三位一体の神は、基本的に私たちが感覚的に確認できるものではありません。
容易に確認できる「神」のことを、聖書は「偶像」と呼びます。
神の恵みが心に触れるとき、私たちは神の愛に喜びを覚えます。
しかし、その経験の翌日に、手痛い出来事に出会うと、「神さまは本当に働いているのか・・・」と考えたりします。
まことの神であるお方を、基本的に私たちは感覚で「確認」することもできず、「経験」もできないのです。
この神の「不可知性」を真正面から受け止めることが、信仰にとって大切です。
「いわしの頭も信心から」という言葉があります。
いわしの頭のようなつまらないものでも、ありがたいものだと思い込めば、ありがたいものに思えてくる、ということです。
こうした「信心」と聖書が語る「信仰」はどこが違うのでしょうか。主観的な「思い込み」と、神への信仰の違いです。
多くの人々は、私たちが神を信じていると言っても、「神がいると思い込んでいるだけ」という風に思っているのではないでしょうか。
どのように「思い込み」と「信仰」は区別されるでしょうか。
まず、「思い込み」の場合は、私たちの意識は非常に「能動的」です。
「これは本当だ。真理だ。絶対なんだ」と、自分でなんらかの事柄を、努力して信じようとするのです。
心は能動的に働いています。
それに対して、聖書が語る信仰は、その根本は「受動的」なものです。
私達がキリスト教信仰に入る時、「よし、神を信じよう」とは意図していなかったのではないでしょうか。
なにか心が教会にひきつけられ、聖書を読み、説教を聞いているうちに、イエス・キリストとの交わりに神の導きによって招き入れられたのです。
神が私たちに働きかけ、私達はそれに導かれ、従ったに過ぎないのです。
神学の伝統に、「強いられた恵み」という言葉があります。
「恵みを受けるように、神によって強いられる」ということです。
私たちは生来、神に反抗する心の持ち主であるため、神によって強いられでもしない限りは、キリストのもとに行こうとは考えないのです。
聖書が語る信仰は、神の働きかけに対する応答という性格のものであって、「わけのわからないものを無理に信じ込む」ということではありません。
神の言葉を聞き、それを受け入れるということが根本にあるのです。
また「思い込み」の場合は、それによって人が本当に平和を与えられ、生きる原動力となるような「プラスの効果」はありません。
むしろ、なんらかのものを無理に思い込むと、心理的にも抑圧され、生活や仕事の面でも、ほとんどプラスがないどころか、支障が次々に出てくるようになります。
しかし、私たちが神のもとに戻ってくるとき、私たちの魂は活力に満たされ、実生活が変えられていく源になります。
聖書や教会の礼拝に触れることによって、人格的に安定し、神に信頼する知恵が与えられ、生活の面に実際的な「プラスの効果」が生まれていきます。
二点だけ述べましたが、キリスト教信仰は「思い込み」とは次元が違うものであることを、心に留めたいと思います。