プロテスタンティズムの独自性⑤ 「自分の言葉で説教する」

 

「プロテスタント的」とはなにか、を考えるとき、やはりなんと言っても「説教」を取り上げざるをえないと思う。

 

カトリックはミサに行くのは「ご聖体を頂くため」で、プロテスタントは礼拝に「説教を聞きに行く」と、通俗的に類型化されているが、これは現代においてもほぼ当てはまっていると言える。

 

もちろん、カトリックのなかにも説教を重んじる司祭が多くいることは私も知っているし、彼らの説教に深い刺激を受け、研究させて頂いた時期もある。

 

しかし、やはり根本的には、カトリックのミサは説教ではなく聖体拝領にフォーカスしていることは変わらないし、多くの司祭の説教は今でも5分程度のものが多い。


「聖書テキストを解き明かす」という基本的な性格さえも持っていない司祭の説教を聞いたこともある。

 

カトリックの「式文」によるミサ、「式文祈祷」を第一とすること、「聖体拝領」にフォーカスすることは、神学的に関連している。


これらは、「伝統を保持すること」を優先する姿勢のあらわれなのだ。

 

これに対して、プロテスタントの礼拝は「説教」にフォーカスする。


プロテスタントもカトリックに学び、リタージカルな礼拝論が広まってきたとはいえ、なおその独自性が説教にあることは見落とすことはできない。

 

牧師として礼拝を準備するとき、時間配分を考えてみれば、やはり説教に最も多くの時間と祈りを注ぐのは、共通しているだろう。

 

それでは、「プロテスタント的」な説教とは、なんなのか。


どんな説教が、プロテスタント独自のものなのか。

 

前の記事で語ったことからすると、「自分で聖書を読む」「自分の言葉で祈る」ということから帰結するのは、「自分の言葉で説教する」ということだ。

 

「プロテスタント的」な説教は、聖書を自分で読み、自分で祈ることにより、聖書から新しい言葉が与えられ、これを消化して自分の言葉をもって説教するということだろう。

 

カトリックとの相違を考えてみると、カトリックはやはり司祭が中心となり、司祭があげるミサに信徒があずかる、という構造がある。


かなりカトリックも改革を試みてきたが、なお基本は変わらない。

 

しかし、プロテスタントは信徒が「自分で聖書を読み、祈り、福音を語る」ことを奨励する。


つまり、信徒自身があたかも司祭のように、聖書・祈祷・説教を担うようになる。いわゆる、「万人祭司」だ。

 

ということは、「プロテスタント的な説教」とは、「自分で聖書を読み、自分で祈り、自分で説教することができる信徒を育て上げる説教」ということになる。

 

つまり、「その説教を聞くことによって、信徒が聖書の読み方を覚え、自ら進んで聖書を読んで恵みを受け、自分の言葉を与えられて祈り、さらに家庭や職場、地域で隣人に福音を語ることができるようになる」説教が、プロテスタントの「万人祭司」の原理に即しているということだろう。

 

その説教を聞くことによって信徒が「恵みを受けました。いいお話でした」ということだけでは、説教として不十分だということだ。


それでは、まだ信徒は受動的なままに留まっている。説教として前提条件を満たしているに過ぎない。

 

そういった次元を突き抜けて、信徒が自ら聖書を読み進め、訓練され、聖書・祈祷・説教を担うまで成長していくことができる説教が要請されていると言える。

 

信徒一人ひとりの神への自発性、能動性が豊かに引き起こされ、神の御前に福音を語るに至る訓練と力が与えられていく説教が求められている。

 

つまり、「説教者を生み出す説教」ということだ。

 

私自身、説教の務めを担うなかで、これがどんなに高いハードルであり、現実的に幾多の困難があるか、嫌というほど感じているが、「プロテスタント的」の原点を考えるうえで、思い切って書かせて頂いた。



齋藤真行牧師の説教・牧会チャンネル

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