「プロテスタント的とは」の第二として、「自分の言葉で祈る」を挙げたい。
プロテスタントには「自由祈祷」の伝統がある。
「聖書を自分で解釈し、自分の言葉で祈る」これが「プロテスタント的」だろう。
カトリックのミサは、多くが「式文祈祷」で占められている。
そこには、信仰の静的な安定感はあるが、信仰と祈りのダイナミズムはなかなか見えにくい。
「聖書を自分で読む」ことは、「聖書のみ言葉で自分自身の言葉が造りかえられ続ける」ことを意味する。
それは「自分の祈りが変えられ続ける」ことでもある。
「聖書を自分で解釈する」ことによって、「新しい祈りの言葉」が与えられる。
「神への応答」の言葉と力が注がれる。
「自分の言葉で祈る」ことによって、「神の前での『個』として祈る」ことが確立されてくる。
「自由祈祷」は、よい意味での「個人主義・人権・民主主義」のスピリットを形成するものだ。
「自分の言葉で祈る」ことは、「神の前で単独者になる」ことにつながる。
自分という存在が、神の御前に解消できない人格と良心、尊厳を与えられた存在として、立つことになる。
このような「個」としての深い自覚こそが、近代世界を成立させる根本原理である「個人主義・人権・民主主義」の理念の骨組みにあたるのだ。
日本に民主主義や、よい意味での個人主義が根付きにくいと言われるのは、「自由祈祷」というプロテスタント的な原理が欠けているからだろう。
「自由祈祷」は「神の御前に立つ単独者」としての自覚をもたらすのだ。
どんなに拙いものでも、聖書の御言葉で新しい言葉を与えられ、自分の言葉で祈る生活を深めることによって、神の前に良心を清められた「人格」が成立する。
このような「人格」の未確立が、近代世界以後のさまざまな問題を噴出させているような気がしてならない。
宗教改革がもたらした「自分の言葉で祈る」「自由祈祷」の伝統を新たに受け止め直す必要がある。