宗教改革500年を覚えるにあたり、「プロテスタント的」とはなにかを、じっくり考える必要を感じている。
それは、「プロテスタント教会の独自性」ということであり、「プロテスタント独自の形成原理」ということにもなる。
「プロテスタントは、なにによって生きるのか」
現代のコンテクストにおいて、この問いにクリアに答えることができるなら、宗教改革を引き継いで新しい将来へ向けて歩めるように思う。
そこで、自分なりにいろいろと考えてみたい。
「プロテスタント的とは」の第一として、「プロテスタントは、信仰者個人が聖書を読むことによって生きる」を挙げてみたい。
最近の神学的傾向としては、「個人」よりも「共同体」を強調する傾向にあるが、あえてここでは「個人」を取り上げてみたい。
宗教改革の発端を考えてみるとき、「マルティン・ルターという個人が聖書を読み、新しい解釈を抱いた」ことが、改革の発火点としてあることは確かだからだ。
「新しい解釈」といっても、それは「アウグスティヌスを継承する、本来のパウロの信仰義認の解釈」ということだが、当時のカトリック教会が忘れ去っていた解釈をルターはしたのだ。
個人がひたすら、深く深く聖書を読むことが教会改革へつながっていった。
ルターは、神の前で個人の良心に照らして聖書を解釈し、カトリックが群れになって撤回を求めても、それを神に対する良心から拒否した。
ここに強靭な「個人性」がある。
教会の「教職制度」や「神学」は、時代精神の流れのうちにからめとられてしまい、本来の聖書の信仰認識を失っていくことがありうる。
聖書が明白に語っておりながら、なんらかの悪い意味での神学的バイアス・フィルターがかかってしまい、真理がわからなくなってしまうのだ。
そういうとき、聖書を読む個人が時代精神を「突き抜ける」解釈を提示して、教会を刷新に導くことがある。
プロテスタントは、そのように「個人で聖書を読む」ことにおいて教会が新たにされていく、ダイナミックな信仰の動きを重んじ、発展させようとするものだ。
聖書からあふれ出る泉から福音的生命を汲み続けることが、プロテスタントの生命線なのだ。
別の言い方をすれば、「信仰者個人が聖書を読まなくなったとき、プロテスタントは衰退し、命を失っていく」ということでもある。
牧師と信徒ひとりひとりが、聖書からイエス・キリストの命を汲むことができれば、プロテスタントは何度でもよみがえるということでもある。
「礼拝の時だけ聖書を開く」という生ぬるさから、「毎日聖書を読む」という熱い生き方へ脱皮することが、宗教改革を覚える私たちに求められているところではないか。