目的主導型教会への第一の疑問は、本来結果である行為が目的化することで、行い中心の教会になってしまうのではないか、ということだった。
第二の疑問はその教会形成の手法にある。それは「マーケッティング」の手法だ。
リック・ウォレン牧師の言葉には「ニーズ」という言葉が多用される。これは、教会に来る人々のニーズのことだ。
こうしたニーズを敏感に聞きとり、そのニーズを満たすように教会活動を形成するのである。
例えば説教。説教は会衆が最も聞きたいことを語るように工夫する。会衆が聞きたいのは「自分はどうしたらよいのか」ということだ。そこで、「こういうときはこうしなさい」という教えが中心となる。
また、教会のミニストリー(奉仕の働き)。これは地域社会のニーズを満たすことが目的だ。そこで、夫婦問題のケア、子供の教育、貧困からどう脱出するか、その他バラエティに富んだ数々のプログラムを用意する。
これらによって地域のニーズを満たすことで伝道しようとする。
そして、礼拝。讃美歌は現代の会衆が最も好むポップス調。基本的にロックバントのライブとあまり変わらない。
歌っている歌詞に「ジーザス」や「ロード」が出てくるので、それが讃美の歌だと気づく。
おそらく、英語が全然わからない人が聞いたら、だれもそれを宗教的な歌だとは思わないだろう。こうした讃美が礼拝のなかで多くの部分を占める。
こうしたすべての教会形成手法の根元にあるのは、「顧客のニーズを吸い上げ、それを明確に満たすものを提供する」というシンプルな原理である。
これは、企業がやっているマーケッティングの手法とまったく同じものである。商品を売り込むために企業は顧客のニーズを把握することを徹底する。
そして、ニーズをしっかり満たすことで自然と売れる製品を作る。
リック・ウォレンはどこから教会活動にマーケッティングを取り入れたのか。その源は経営学者のピーター・ドラッカーにある。
サドルバック教会はドラッカーの経営学と、伝統的な教会との融合によって生まれたものである。ドラッカー流に教会を再解釈し、経営学の原理をキリスト教会に導入したのだ。
それが目的主導型教会の本質である。
マーケッティング、経営学の原理で教会形成がなされた場合、どんなことになるのか。
マーケッティングどは、「顧客のニーズ」の把握を第一とする。この場合、顧客とは教会の会衆や地域の住民だ。
こうした人々のニーズを満たすことを優先していくと、大事なことが置いてきぼりにされる。
それは「神のニーズ」だ。教会は基本的に人間のニーズを満たす場所ではない。むしろ、神が求めておられることをなしていくのが教会なのだ。
神を求めるなかで、結果的に人間も満たされるのである。
神が求めておられることをするためには、時に人間と対立することもありうる。旧約の預言者や使徒たちが「人間よりも神に従わなければなりません」と戦ったように。
ところが、マーケッティングは人のニーズを神よりも優先することになりがちだ。
すると、「神よりも人間に従わなければなりません」という人間中心の教会とならざるをえない。神はその人間をよりよくするためのツールに過ぎなくなる。
最も影響が大きいのは、教会が企業となることだ。マーケッティング手法は、企業の原理であり、教会はそれとは別次元で動かなくてはならない。
ところが、この手法により教会は企業となっていく。するとこうした教会の特性として、この世での経済的繁栄、事業拡大、利益追求の体質となっていくことを免れることができない。
十字架と復活のキリストのお姿からほど遠くなっていってしまう。
これが目的主導型教会への疑問だ。
教会は人間の組織というより、神の組織だ。だから、神の恵みの力によって世の終わりまで存続する。
ところが、教会が人間中心の人間の組織に変容してしまったら、企業に当てはまるのと同じ法則が当てはまる。
つまり、人間の知恵と力が尽きたとき、これらが通用しなくなったとき、その組織も没落する。
これが目的主導型教会への疑問である。インターネットや書物の情報を見る限り、私はどうしてもこの疑問を払拭することができない。
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