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日本伝道の根幹② 「教会に使命と責任を担う信徒」

 根幹 | 自然・風景 > 森林 | GANREF


日本伝道の根幹として、第二の超重要な点を挙げたい。

 

それは「教会に責任と使命感を持つ信徒が育ち続けること」だ。

 

これなくしては、①に記した「堅実な職務を果たす牧師」がどんなに多く起こされても、教会の実態はまったく変わりはしないし、現実的にはすべてが無に帰する。

 

というのも、教会の前進や成長の「鍵」を握っているのは、「短期的」には牧師であっても、「長期的」には明らかに信徒だからだ。

 

大多数の信徒が教会に対して、常に「お客さん」・「福音の消費者」の態度をとっており、「神には癒されたいが、自分がその恵みに応答するのは面倒だし、億劫だ」というような態度であるなら、その教会の将来は基本的にないものだと思った方がよい。

 

これも、理解のためによくある事例をデフォルメした形で提示したい。

 

・・・・・・・・

 

力を失い、ほとんど将来が見えなくなった教会に、非常に力のある牧師が赴任してきた。

 

信徒は大変その牧師の働きを喜んだ。「これでうちの教会も、なんとかなる」と思い、安心した。

 

牧師は対内的、対外的なあらゆる奉仕を引き受けて奮闘し、教会は見事に立ち直った。

 

一方、信徒は「先生にまかせておけば、大抵のことはうまくやってくれる。自分は恵みだけを受けていよう」と考えて、教会に対して「お客さんモード」になる人がどんどん増えていった。

 

その間、牧師の働きは放物線的に増大し、その重荷は相乗的になっていった。

 

ところが、信徒はそういった牧師を見ても、「先生、大変ですね」「お祈りしています」と言うばかりで、牧師が担っていることを「自分の責任」「自分の課題」「共に担うべきこと」であると考える人はだれもいなかった。

 

「伝道」や「受洗者を生み出すこと」は「牧師のすること」であって、信徒は「会堂清掃や献金をしていれば、それで信徒としての責任は十分に果たしている」とだれもが考えていた。

 

牧師は何度も「ぜひ、皆さんも私が担っている教会の働きに協力してください」とアピールし続けた。

 

しかし信徒は「福音の消費者」・「お客さんモード」であるため、「いま仕事が忙しいから、経済的に厳しいから、時間と力に余裕がないから、そういう気分になれないから、面倒で億劫だから」と断り続けた。

 

やがて、牧師が伝道の前進や教会の成長にとって有益と思われる提案をしても、役員会でさえ「そういったことは大変だから、やめましょう。うちの教会は高齢化していて、財政的にも厳しいのです」という理屈だけが通るようになっていき、信徒は「伝道」のことなど考えなくなった。

 

牧師は「もはや、自分がここですることはない」と考えて、他の教会に転任していった。

 

次に来た牧師は、「現状維持」「波風立てない運営」を第一の信条とする牧師で、教会員にもなんら変化や成長を求めない牧師だった。

 

教会員はみな、この牧師を非常に喜んだ。

 

「この先生は、前の先生のように律法的ではない。厳しいことを自分たちに要求しない」

 

「いろいろな意味でゆっくりさせてくれるから、教会生活も楽なものになる」

 

「この先生にまかせておけば、きっと大丈夫だろう。穏やかな性格だから」

 

牧師の現状維持志向と、教会員の「お客さんモード」が完全に合致したため、教会には「深い平穏」が満ちた。

 

ところがその平穏は、「死の平穏」でもあった。

 

受洗者はほとんど起こされず、礼拝出席者は減り、多くの教会員が次々に召されていくなかで、経常会計がまったくの危機的状態となった。

 

役員会はすぐに「牧師謝儀を減らせばいい」という最も安易かつ効果的な結論をくだした。

 

その牧師は「こんな状態ではもう、ここにいることはできません」といって他の教会に転任していった。

 

あとには、ひどく縮小して前へ進む意志さえも失った教会が残った。

 

・・・・・・・・・

 

以上の事例を考えてみると、以下のような結論は避けられない。

 

牧師がいくら頑張ったとしても、信徒がそれに応答しないなら、教会の前進や成長はない。

 

信徒が「お客さんモード」なら、牧師と信徒の意識が永続的に乖離し続け、結果的に教会の前進の足をひっぱることになってしまう。


というのも、教会は「十字架を背負う」ことによってしか進みはしないのだが、「お客さん」モードの信徒は、十字架を背負いたくはないからだ。

 

大多数の信徒が教会に対して「お客さん」の姿勢であるなら、牧師にいかに力があったとしても、長期的には教会の成長にとってプラスにはならない。


というのも、牧師個人の力だけでやった結果、牧師の力に頼るばかりの教会になるなら、その牧師が去ったときに教会が姿勢を転換することは困難だから。

 

信徒が教会に責任と使命感を持たない限り、牧師一人では担える職務や影響の範囲に限界があるため、ごく限られた程度しか前進しない。

 

「おおいに成長する教会」と「そうではない教会」の「絶対的な違い」は、「信徒の教会への参与度」だ。

 

おおいに成長する教会は、信徒それぞれが「リーダー」となって多くの人を受洗に導く。信徒が教会の課題についていつも祈り、考え続けている。信徒が教会は常に「自分の責任と使命」であると考えている。

 

そうではない教会は牧師だけが「リーダー」となるため、牧師以外に受洗に向けて導こうとする強い意志を持っている者がなく、牧師だけが教会のことをいつも心配し、課題について考え続けている状況になる。

 

以上の課題は日本伝道の実践の領域で最も重いものであり、戦争を体験した世代の筋金入りのキリスト者が次々に天に召されている現代にあって、今後の教会の上空に恐るべき黒雲を生じさせているものだ。

 

「主よ、憐み給え。教会を自分のように愛する信徒を起こし給え」と祈らざるを得ない。



日本伝道の根幹① 「堅実に職務を果たす牧師」

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「日本伝道」という課題について、「根幹」の部分を書かせて頂く。

 

自分自身が伝道牧会の現場で、多くの教会の実態を見聞きするなかで、痛切に感じていることを、いくつか共有したい。

 

「日本伝道の根幹」というタイトルの意味は、「最も基礎的な課題であり、それが危うくなるなら、日本伝道自体が危機的なものになる」という生命線に関わる、実践的な課題ということだ。

 

その第一として、「堅実に職務を果たす牧師が起こされ続ける」ことを挙げたい。

 

これは、日本伝道を進めていくうえで、「絶対的な前提」であると言える。

 

このことの理解のために、地方の教会でよくある事例を、以下に素描してみよう。

 

・・・・・・・

 

 

ある教会に新任の若い牧師が赴任してくる。

 

その教会は人数も減り、やる気もなくなり、非常にまずい状態になってしまっている。

 

ところが、赴任してきたその牧師は血気盛んで、若い力に満ちており、職務を果たす力においても優れていた。

 

その牧師があれこれと模索して、献身的に教会形成した結果、教会は立ち直り、人数も増え、霊的にもおおいに成長した。

 

その牧師は、30年間の働きをその教会に捧げ、礼拝出席も100名を超えるようになり、その地方で最も大きく力のある教会の一つに成長した。

 

牧師は隠退して、後任に教会の職務をゆだねた。

 

次に赴任してきた牧師は、前任の牧師とは考え方も世代もまったく異なっており、献身の情熱も先代の牧師ほどではなく、教会形成よりも自分の人生を楽しむことを、より優先して考えるようなところもあった。

 

その牧師が職務に従事するなかで、教会にはこれまでなかったようないろいろな課題が起こるようになり、次第に教勢も落ちていった。

 

10年後、その教会の人数はほぼ半数に減ってしまった。

 

牧師はその教会の居心地が悪くなったことを実感して、他の教会に転任していった。

 

その次に来た牧師は、教会への情熱や志という面で、更に「現代風の考え方」をしており、自分の趣味や生活の満足の方に人生の意義を見出すことに熱心だった。

 

さらに教会形成については「可能な限り波風立たせずに平穏を保ちながら運営し、現状維持ができればいい」という考えだった。

 

こういった考え方では、現状維持さえできず、5年後には30人前後にまで礼拝出席は減っていき、教会員の失望は甚だしいものがあった。

 

その牧師は役員会で「自分の責任なので」と言って転任していき、意気阻喪した教会があとに残った。

 

・・・・・・・・

 

 

以上の例では30年かけて先代の牧師が生命を賭して築かれたものが、わずか15年でまた「振り出し」に戻ってしまった、ということになる。

 

このような事例はごく簡単な形にデフォルメされたものだが、教会の歴史として、非常によくあるもので、珍しくもない事例である。

 

以上のようなことから、私が伝えたいことは以下のことだ。

 

どのように賜物と力、情熱にあふれた牧師が赴任して、その世代で教会が立ち直ったとしても、その牧師はやがて教会を必ず去っていく。

 

その次に職務を堅実に果たす牧師が起こされないなら、先代の牧師が築き上げたものも、ごく短期間のうちに失われてしまう。

 

教会形成は、特定の牧師の「一世代の職務」で完結するものではないのだ。

 

「堅実に職務を果たす牧師」がその後に起こされ続けないなら、だれか一人が大きな力をふるって孤軍奮闘したところで、その築いたものは歴史の泡のように消えてしまいかねない。

 

「堅実に職務を果たす牧師が継続的に起こされ続けること」がないなら、「日本伝道」は世の終わりまで「前進」しながら、建設的に「積み上げていく」ようなものではなく、「積み上げては崩れ、壊れては積む」という「賽の河原の石」のようなものになってしまう、ということだ。

 

良心的かつ情熱的な牧師が単独で教会をたてなおしても、後に続く牧師がそういったものではなく、教会の職務を「飯のタネ」くらいにしか考えていないようなものなら、教会は容易に崩れていく。

 

しっかりと職務を果たす牧師が生まれ出て、成長していくためには、「献身者を生み出す教会」の霊性と、「献身者を育てる神学校」の神学教育・訓練がしっかりと組み合わされないと難しい。

 

さらに、牧師自身が「学び続ける」姿勢、キリストにある生き方を体得していく姿勢、霊的な「自己修練」に励み続ける姿勢などが求められる。

 

牧師は「霊的アスリート」のようなものなのであって、「訓練・修練」なしにはどんな働きもできはしない。

 

これらの課題の壮大な困難さを思うと、眩暈のようなものを感じる。ひどい無力感や徒労感をも覚えるものだ。

 

「主よ、憐み給え。新たな御言葉の役者を起こし給え」と祈らざるをえない。

 

 




齋藤真行牧師の説教・牧会チャンネル

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