「十字架の聖ヨハネ」と呼ばれている人物の著作を読んだことがある、プロテスタントの牧師や信徒の方はおられるだろうか。
彼は、カトリックの「カルメル会」という修道会の創始者であり、卓越したキリスト教神秘主義者だ。
私は、大学生のとき『カルメル山登攀』を読んだが、そのときの自分の状態とあまりにかけ離れている記述が延々と続くため、途中で放り出してしまった、という経緯がある。
しかし、最近彼の神学への目が新たに開かれ、改めて『カルメル山登攀』を読んでみて、大変学ぶところがあったので、コメントさせて頂きたい。
特に彼の神秘神学の特徴をなす概念は、「暗夜」ということだ。
これは、単純に「試練」や「苦しみ」を指すというよりも、「確実な認識が得られない、確実なものを握りしめることがない状況のなかに入る」ことだ。
人間の理性や感覚で暗くてとらえることができない、信仰的状況に分け入っていくため、それを「暗夜」と呼んでいる。
人間の感覚や理性によっては把握することができない、霊的・信仰的・無的な道のなかに、空の手と空の心をもって、ただ無心に入っていくことをヨハネは語り続ける。
人間的な感覚、理性といった光が暗くなってしまい、ただ内に燃える信仰だけを頼りに暗い夜を進み続けること。それが信仰が深められていくことなのだ。
ヨハネは、「暗夜」には基本的に二段階あることを語る(著作ではもっと詳細に段階が分けてあるが、大きくは二つだ)。
つまり、「感覚的暗夜」と、「精神的暗夜」。
第一は、この世的な、感覚をもって把握できるすべてのものに対する執着や欲望を捨てることだ。
これは、食べるな、飲むな、味わうな、というような単純なものではない。
もちろん、食べたり飲んだりすることはあっても、それらに心が魅せられ、縛られてしまう、そういう執着や欲望を手放す、ということだ。
この世の快楽や楽しみといったものに対する執着を脱ぎ捨てることで、神との一致への重大な一歩を踏み出す、というのだ。
第二は、理性、理性、霊性をもって把握することができるすべてのものに対する執着と欲望を捨てること、それが「精神的暗夜」だ。
私はこの部分に大変強い刺激を受けた。
私たちはこの世の快楽は手放しても、「神の慰め」や「霊の宝」、「信仰の恵み」といったものに対しては、非常に強く執着している。
この世を軽んじていても、こうしたものを重んじて執着するのは、実は「執着」という点においては同じなのだ。
こうした「神以外のもの」への執着と欲望が、信仰を停滞させる最たるものなのだ。
つまり、ここで問われているのは、「あなたが求めているのは神ご自身なのか、それとも神が与えてくださる恵みなのか、どちらなのか」ということなのだ。
「神の慰め」「神の恵み」を求めているとき、私たちはただ自分自身の幸せを追求しているだけではないか。本当に神ご自身の方に心が向かっているのか。それを問われているのだ。
このように、「感覚」と「精神」の「暗夜」を通っていくことで、魂は「神以外のもの」に対する執着と欲望をすべて脱ぎ捨てて、ただ無なるものとして神の御前に立つに至る。そして、ただ神を仰ぐことだけに喜びを覚えるのだ。
ここで描かれていることを、「机上の空論」として退けることは容易だ。
おそらく、ほとんどの人にとってはあまりに厳しく、到底たどり着くことができないような世界が描かれている印象があるだろう。
しかし、そこで問われている課題は、真実なものであると言わざるをえない。
私たちはこの世的、知的、霊的な「宝」に対する執着を手放し、ただ「神ご自身を喜ぶ」という信仰の究極に向けて、旅をしているのだ。
難解で読むのがきつく、さらに誤解もされやすい内容が多いと思うが、ぜひ彼の神学に触れてみていただきたい。
目が開かれるところがいろいろある。私自身も、まだ自分の神学と照らして消化できないところが多いが、また理解したところを紹介したい。