パネンベルクについては、神学生時代まったく勉強しなかった。
私自身はバルトが最も好きだったため、神学教授からいろいろ教えて頂いたとき、パネンベルクの神学はなんだか「性に合わない」と感じていた。
つい先日、ようやくパネンベルクの小さな著書を読んで、いろいろと思うところがあったので、紹介させて頂く。
神学を「上から」と「下から」の二つに分けるとすると、バルトは「上から」の神学者だが、パネンベルクは「下から」の神学者だ。
「キリスト教神学の独自性とはなにか」という問いを立てた場合、神学者の立場によっていろいろ答えは変わる。
この問いに、その神学者の神学的立場が要約されうる。
バルトなら、「イエス・キリストだ」というだろう。
ブルンナーなら、「人格的応答関係」と言うかもしれない。
ティリッヒなら、「人間の実存的問いへの答え」と言うかもしれない。
パネンベルクはこの問いに対して、「歴史だ」と答えている。
私たちが通常、「歴史的」な思考として考えることができるものは、聖書がその源泉であると考えている。
聖書なくしては、「歴史的思考」は存在しないとさえ言う。
ギリシア的な観念は、この世界を形成している「秩序」や「法則」を重視するものだ。
この世界(コスモス)は定められた秩序や法則に従って動いているため、これらの法則性(ロゴス)を理性的に洞察して、これに合致して生きることが人間として正しいと考える。
ギリシアの世界観では、世界は静的なものであり、そこでは秩序や法則から外れたことは起こらない。
これと比較してパネンベルクによると、聖書的理解ではこの世界はあくまで歴史的なものであり、「新しい出来事が神によって起こされる」ことによって、過去が新たに理解し直されていくプロセスだという。
つまり、「法則・秩序」に合致して生きていれば人間として正しいというものではなく、人間は歴史に巻き起こる神の業に出会い、これと取り組み、理解することによって、過去をも新たに解釈し直していく存在だということだ。
パネンベルクが言う歴史とは、新しいことが生起し続ける神の業の舞台だ。
「法則・秩序」によって、割り切ることができるものではない。
歴史に起こってくることは、間接的に神の業であり、人間はこれと取り組み、歴史を受け止め直す作業に従事する。
それによって、過去をも新たに理解されていくプロセスにほかならない。
以上の理解に暗示されているように、パネンベルクは歴史から離れたところに、神の業を想定しない。
バルトは、イエス・キリストの啓示は歴史的なものでありながら、これを超越していると考える。
バルトはイスラエルの歴史を「原歴史」として語り、これを人間の歴史の元型・予型とする。
パネンベルクは、「イスラエル、イエス・キリストの歴史」を他の歴史とは異なるものという形で、これを他の歴史から区別しない。
彼はすべての歴史を包括する「普遍史」という概念を提示する。
キリストの生涯もまた、「普遍史」のなかに位置付ける。
キリストの復活もまた、あくまで歴史的出来事として考え続けることを求める。
パネンベルクは、神の業や啓示を、「歴史」から遊離させようとするすべての考えと闘っていると言える。
彼の行き方は、歴史にあくまで軸足を据える歴史神学ということで、キリスト論的には「受肉的神学」の方向性ではないかと個人的には受け止めた。
このような神学的ベクトルは、カール・バルトに代表されるような、神の超越性を強調する神学に対する、ひとつのアンチテーゼとして、神学者の足を「地に着ける」働きをし続けてくれるものだろう。