テイヤール・ド・シャルダン 「進化論的神学」の意義

 生物の種としての人間の自覚 - Noosphere<精神圏>

 

テイヤール・ド・シャルダンの神学の意味を考えてみたい。

 

彼の神学の一つの特色は、地球的な進化の道筋のなかにキリスト教をも位置付けていることだ。

 

地球上のあらゆる生命が進化し、分岐していくそのエネルギーの大元は、イエス・キリストという「オメガ点」であり、人間もまたこの「オメガ点」を自らの目的として生きることによって、愛と協同による真実の社会を実現できる、とする。

 

「進化」という生物学的な現象のなかに、人間と神への信仰も位置付けるという意味では、彼の神学は「下からの神学」であるし、「受肉的神学」、またある意味では「歴史的神学」と言える(生命の歴史、という意味で)。

 

彼は、地球的な進化の大きな流れのなかにキリスト教信仰を置くことで、「人間が真実の社会を実現するために更に進化するうえで、キリスト教信仰には重要な意義がある」ということを示そうとしたのだ。

 

「キリスト教信仰はなぜ、どのような意味で人間にとって重要なのか」という問いかけに対して、彼は進化論的神学をもって答えている、ということでは「弁証学的(信仰のない人に対して、信仰の意義を証しする神学)」なものだ。

 

彼の神学に触れることによって、信仰の意味がわからなかった人が、はたと手を打って「キリスト教には、そういう意味があったのか!」という認識を得ることができる、という意味では非常に有効なものだ。


「進化論」という、現代人が納得しやすいところに地盤を持っているため、説得力も大きい。

 

しかし、この点が同時に彼の神学の弱点になっていると感じる。

 

彼の神学の基礎づけが、「進化論」にかなりの程度依存していることそのものが、彼の神学に対する不安要素を突き付けることになる。

 

「人間の進化」ということを考えていくと、「進化している人間」と「進化していない人間」の違い、ということを考えざるを得なくなっていく。

 

そして、「オメガ点」を「イエス・キリスト」とする場合、「キリスト者は進化しつつある者だが、キリストを信じていない者は進化の途上にはない」という帰結を生みださないだろうか。

 

「キリスト者」を、人間として「進化しつつあるエリート」として考えてしまうと、当然意味が誤解されてキリスト者の傲慢につながり、信仰のない人を見下ることになりかねない。


また、結果的に罪人の集う地上にまでへりくだってくださったイエス・キリストと正反対のことにもなる。

 

これに対して、テイヤールはおそらくこう言うだろう。

 

「それは、進化の意味を完全にはき違えている誤解です。私が進化というときには、キリストに似た愛と謙遜に向かって進化していくということです。キリストこそが人間の目的ですから。つまり、本当に進化しつつあるキリスト者は、うぬぼれたり、傲慢に陥って人を見下したりはしません」

 

彼の論法が、「進化」ではなく「聖化」なら、上の説明で納得できる。

 

しかし、テイヤールが、キリスト者の歩みを「聖化」ではなく、「進化」によって基礎づけようとしていることに、やはり難点が出てくる。


つまり、「進化」という用語を使うと、どうしても「霊的」な意味ではなく、「生物学的」意味が出てきてしまう、ということだ。

 

「オメガ点」に向かっている人が「進化」しているとなると、「生物学的により適応しており、優位性がある」という意味がどうしても用語的に出てきてしまう。

 

このことが、妙な意味での優生思想的なものにつながらないとも限らない。

 

「進化論」という、生物学的な基礎に神学を立てようとするところに出てくる、特有の課題だ。

 

以上の懸念は、かなりテイヤールの神学を「斜め」から見ている、非常に意地悪な見方だ。あえてそういう見方を書いてみた。

 

しかし、人間は自分が有利になるためには、どんな理論をも自己正当化のために使ってしまうことがあるということを、考慮するのは大切だろう。

 


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