2017年は宗教改革500年の記念の年だった。
「宗教改革とはなにか」ということを、改めて考えなおすときと言える。
私自身も、宗教改革に対しては特別な思い入れがあるため、当ブログにグダグダ考えていることを書かせて頂きたい。
「宗教改革を考え直す」とは、同時に、「プロテスタント教会とはなんなのかという課題を受け止め直す」こともである。
さらに言えば、この問いは「プロテスタントが今後もカトリック教会に再帰しないとするなら、その理由とはなにか。なぜ、なおプロテスタントなのか」ということだ。
ときどき、「ルターが現代に生きていれば、宗教改革は起こさないだろう」と言われることがある。
カトリック教会も、贖宥状を販売していた1517年よりは遥かに神学的にも教会的にも健全になったから、今は「宗教改革」を起こすほどのひどい状態ではない、ということだろう。
エキュメニズム(教会再一致運動)も進展している現在、「宗教改革を記念すること」そのものが、あまり意味がなくなっている、という議論もありえるとは思う。
「今更、宗教改革を煽り立ててカトリックとの亀裂を改めて深めてしまってはまずい」という意見もあるだろう。
もちろん、カトリック教会とは親睦を深め、相互理解に努めていくことは有益だ。
プロテスタントが忘れ去ってしまったような、信仰的伝統をカトリックは保持しているからだ。
同時に、プロテスタントもまたカトリックが忘れている真理と伝統を保持している。
真理の認識の不完全さにおいて、「お互い様」という意味では、今後も仲良く互いの伝統に学び合い、研鑽に務めていくことが大切なのは言うまでもないことだ。
以上のことを前提にしてのことだが、私自身は「プロテスタントはカトリックに再合同・再帰してもいいのではないか」という意見に対しては、完全な拒否反応を示さざるをえない。
「プロテスタントとカトリックは、信仰的・神学的に別の原理のもとに教会形成するものだ」という点について、徹底的に明確にしておかなくてはならないと考える。
「宗教改革500年を記念する意義」とは、「プロテスタントは、なぜ今もなおカトリックには帰らないのか」を熟考し、「カトリックとは異なる、プロテスタントの存在意義と独自性」について、神学的・信仰的な理解を深める時だ私自身は受けとめている。
それは同時に、「カトリックと比較した際の、プロテスタントの短所と長所」について、じっくり批判的に考え直すことでもあるだろう。
また、「社会的文脈のなかで、プロテスタントにしかできないこととはなんなのか」を考えることもでもある。
「宗教改革500年」のとき、「プロテスタントの独自性」を受けとめて、新しくその理解を深化させることができるなら、大きな祝福になるに違いない。